最近のニュースで体罰について話題になっています。
体罰の評価は社会思想として根源的なテーマかもしれません。
古代ギリシャに「スパルタ」という都市国家がありました。
スパルタは古代ギリシャ最強の軍事国家であり、市民は7歳から成年になるまでの間、
体罰を伴う厳しい集団生活と体育訓練が行われていたそうで、「スパルタ教育」の
語源となりました。
その抜群の軍事力を背景としてスパルタはギリシャ世界の覇権を握りましたが、すぐ
に衰退へ向かいます。
覇権とともに莫大な富を握った結果、国民が質実剛健さを失ってしまったからだとも
言われています。
集団の強さを発揮するためには体罰を有用と考える人もいます。
そして日本は集団的団結力を強みとする社会だとよく言われます。
では、体罰は日本社会に根ざした慣行なのでしょうか。
戦国時代に日本へやってきたポルトガル人宣教師ルイスフロイスは、親が子どもに
接する風景を見てこんな記録を残しています。
「ヨーロッパではムチで子どもを懲罰するが、日本ではめったになく言葉で説教する
だけである。」
明治初期に日本へやってきて大森貝塚を発見したエドワード・モースも、
「日本の子どもは親から大切にされ、自由であり、罰もない。」と不思議に思った
ようです。
欧米人の目から見ると、日本の親は子どもに対して寛大すぎるという印象のようで、
これが日本の文化的な特徴として記録にとどめられているところを見ると、少なく
とも幼児に対する体罰は今も昔も日本的ではないようです。
一方で、ある程度の年齢になってからの体罰については別の見方もありえます。
日本特有の「和」の精神の中には、他人との争いを避けたい意識とは裏腹に、
「仲間同士なら少々のことは許される空気」みたいなものもあって、この「空気」
を読み違えたときに体罰が問題化しているような気がします。
むしろ、この「空気感」のズレの方が難しい問題なのかもしれません。
「空気」というのは作家の山本七平氏などが指摘したように重要な日本的要素の
ひとつだと思います。
この話、キリがないのでこのあたりにしておきますが、ルイスフロイスの話は
またいずれ紹介します。
(日野 孝次朗)