2013年2月26日火曜日

鈴木貫太郎と2.26と日本の敗戦

大東亜戦争が破滅的な局面となっていた昭和20年の4月12日。
敵国であるアメリカの大統領フランクリン=ルーズベルトが死去しました。

アメリカと戦争中であったドイツの総統アドルフ・ヒトラーはルーズベルトの死に対
し、「ルーズベルトは史上最悪な戦争犯罪者として歴史に残るだろう」という声明を
発しました。
では当時の日本政府はどのような声明を出したのでしょうか。

「今日の戦争においてアメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極
めて優れているからです。その偉大な大統領を失ったアメリカ国民に、深い哀悼の意
を送るものであります。」

「本土決戦で鬼畜米英を迎え撃て」と叫ばれていた当時に、こんな声明を発したのは
総理大臣鈴木貫太郎でした。
元海軍大将、そして天皇につかえる侍従長として昭和天皇からの信任厚かった人です。
鈴木貫太郎の生涯の信条は「軍人は政治に関わるべきではない」でした。

侍従長時代に、ロンドン軍縮条約に反対する軍部が天皇へ直接意見を言おうとするのを
阻止したため、軍部の統帥派から狙われることになりました。
軍部が天皇に直接意見することは議院内閣制の否定に繋がりますが、当時の軍部に
「統帥権」という独特の考え方があって、軍人は天皇の直属だから内閣を無視して天皇
に直接意見を言える、という解釈があったのです。

こういった経緯により、2・26事件で反乱部隊の襲撃を受け、身に3発の銃弾を浴びま
したが、夫人がかばったので一命を取りとめました。
ちょうど昨夜のNHKニュースでは、夫にトドメをさされないようかばった際の夫人
の談話が肉声テープで公開されていました。

日米開戦の23年前、訪米の際にスピーチでこんな発言をしたそうです。
「日米両国は太平洋をその名の通り平和の海にせねばならない。もしどちらかが戦争
をするのならたちまち天罰が下るであろう。」

ところが皮肉にも、その天罰を受け止める日本の総理大臣として、破滅寸前の難局を
担当することとなりました。
総理大臣就任を要請されたとき、再三固辞する鈴木貫太郎に対し昭和天皇は、
「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない。
頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と言われたそうです。

原爆が投下された後も、降伏の是非をめぐって政府内では激しく対立していました。
総理大臣であっても、強硬な軍部や抗戦派を従わせることができません。
鈴木総理は秘密裡に天皇の裁断を仰ぐという大胆な工作を行いました。
そうする以外に戦争を終わらせる方法がありませんでしたが、おかげでまた軍部から
命を狙われることになりました。

昭和23年、何度も死にそうになりながらの80年の人生を全うしました。
終戦直後、「敗戦の責任を取って自刃しないのか?」と記者からインタビューされた
そうです。
軍部に迎合し国民を扇動したマスコミの責任はどうなんだ?と私は思いますが、それ
はともかく、鈴木貫太郎の返事はこんなだったとか。

「死ぬということは、最も容易な方法で、なんでもないことだ。」


(日野 孝次朗)