釣りは自然の中で遊ぶことを教えてくれたし、考えると言うとても大事なことも教えてくれたようだ。
今思えば釣りが「今そこにある危機」と言う考え方を僕の心に定着させてくれたと言っても過言でないような気がする。
例えで渓流について考えると、一人で出かけた場合は自己責任で全ての状況を自分で判断しなくてはならない、
水量は安定しているか
この川は渡れるか
浮き石はないか
登った崖は降りることが可能か
動物(熊)の生活圏に侵入していないか
釣りを断念する覚悟と勇気はあるか
等、正に渓流釣りは常に「今そこにある危機」と直面している。
自然と仲良くすることも自然の怖さも、この単純な釣りを通して学んだ。
魚を釣るために大人も子供も、「どうしたら釣れるか」と真剣に考え、状況に応じた自己の答を出し実践するが思い通りに釣果が上がらなければ、また考える。
多分釣りとはこの繰り返しだ。
仕事に置き換えてみれば、基本的な考え方はこれと一緒だろう、成果を生み出すために有りとあらゆる智恵を絞って進めば、きっと完成するはずなのに、こと仕事となるとどこかで妥協してないだろうか。
釣りを経験していない人は已むを得ないけれど、釣人だったら仕事に妥協癖は付けないで欲しい。
釣りは趣味であっていいし、仕事の息抜きだっていいけれど、やはりどこかに矜恃だけは持ち続けたいと僕は思っている。
僕は今、テンカラでの岩魚釣りしかやらない、毛鉤もオールラウンドの域に達したと思ってはいるが、それでも昨日の毛鉤に必ず来る保証はないし、来なければ少々の修正をする。
柔軟な考え方を持っていなければ、あの用心深い渓魚を毛鉤で誘うことなど無理だろうな。自分に自問自答し迷って、岩魚を仕留める高揚感は仕事ではなかなか経験出来ない。
この先、東京を中心に大震災が起こるらしいが、渓流釣りで培った「今そこにある危機」を忘れなければ、どのような状況に置かれようと、僕はきっと生き残れると信じているし、人を助けることだって可能だろう。
世の人よ、時があるならば渓流釣りに出かけてみなされ。
これから先も僕は、テンカラ釣りを通してもっと、もっと貪欲に進化を続けるだろう、何故なら、釣りに最終点はないから。
そして釣り人よ、今日もあの川は眠らない。