2011年9月7日水曜日

釣り考 その1

釣りを始めたのはいつ頃だろうか、確か小学校1年生の頃だと記憶しているので、もう50有余年になるんだな。
今は究極のテンカラ釣りが自分の到達点だったと思っているが、そこへ辿り着くにはどんな釣り変転があったのか紐解いてみよう。

1 釣りを始めた時期

    僕の誕生と時期を同じくして「相模湖」と言うダム湖が完成した。
    そして、当時僕は相模湖の対岸に位置する藤野町の吉野と言う地域の相模湖を目の前にした集合住宅に住んでいた。
    昭和20年代後半で食料は常態として不足をしていた頃だったので、親父はその食料不足を補うため、相模湖で野鯉釣りをしていたようだ。
    家の前に5メートルくらいの竹の延べ竿が一本置かれていたのを、うっすら覚えている。親父は多分その竿で野鯉釣りをしていたのだろう。

    釣り場は天垂下の湾になったところ(僕はその場所に行ったことはないけれど記憶があるのは、きっと親父がよく話してくれたからだろうと思う)で、餌はサツマイモを蒸かして1㎝くらいの賽の目に切ったもの。
    2尺の野鯉を釣り上げるのに30分くらいかかると言ってたけれど、自分が野鯉釣りを初めてその言葉がよく判った。当時は今のような強い天蚕糸がなかったから、きっと大変な遣り取りをして釣り上げたのだろうと思う。

    しかし、野鯉を食べた記憶が僕にはない。親父は鯉コクや味噌漬けの話をしていたので、きっとそんな食べ方をしたのだろうけれど記憶が欠落しているようだ。
    僕は小学校1年生の頃、家族で相模湖町の伯父の家に引っ越した。
    そこで年上の3人の従兄弟やマツギの勇ちゃんをガキ大将に多くの仲間達に出会い、沢山の遊びを覚えたが、釣りもその一つだった。
    暇が出来ると相模湖に行き、岸辺で大人達が落として行った釣り針捜しから始まり、天蚕糸は家にある木綿糸、竿はその辺の竹藪から取って来た竹、錘も浮子もなく、ただ竿の天蚕糸と針が付いているだけのもの、餌は何処にでも居るミミズ。
    針にミミズを掛け、魚が居そうな場所に投げ込み、自然の重さで沈むのを待ち、天蚕糸を張っていると手にビクビクと言う、何とも言えない感覚が伝導される。

    そこからが勝負となる、最初はその感覚と同時に上げていたが、釣れない。
    繰り返す内に学習能力と感性が一致すると、どの時期に上げればいいか判ってくる。ドバミミズは長いから小さい魚は一気に飲み込めない、だから魚が針に到達するのを待ち続けると、体が「今だ」と教えてくれるので竿を上げると必ず掛かっている。釣れる魚は小鮒やハヤ、オコゼの類であるが小学校1年生の僕には何とも言えない高揚感と達成感が一人前の釣り人気分にしてくれたな。
    その後、瓶拾いや電線拾いでお金を稼ぐようになって、木綿糸の仕掛けから卒業し、ナイロン糸や板鉛や玉浮子を買えるようになると俄然釣りにのめり込んだ。
こんな立派な釣り仕掛けが持てるようになった。
ハリスは当時流行っていた赤色二股のもので板鉛を固定し、その場所に合った棚に玉浮子を装着し、投げ込む。
餌は当然ドバミミズ。

玉浮子がピクピク動き出すと緊張感が高揚し、上げる時を待ち、感性の趨くままに引く。
調子がいい時には2匹釣ることも出来る。
小魚でも2匹掛かると、2匹が違う方向に泳ぐので、その引きはもの凄く強く尺鯉が掛かったのではないかと思うくらいだ。
何時だったかこの仕掛けに2匹の金魚が掛かったことがあったけど、何故相模湖に金魚が居たのか今でも不思議の一つだな。

トム