2011年9月28日水曜日

釣り考 その4 ブラックバスがやって来た

   6年生だったか中1の頃だったか定かではないが、相模湖にブラックバスと言う外来種の魚が放流されたと仲間内で噂になった。
    この魚がどんな魚で、どんな釣り方をするのか誰も知らなかった。
    只、美味い魚だと言うことだけは、しっかり伝わっていたので興味があり、釣ってみたいとは思っていたが、その前に釣り方の知識を輸入しなくてはならない。

    現在のようにインターネットなどと言う便利なものはない時代だから、何処かで情報を入手しなくてはならない。当時相模湖に漁協などの組織はなかったので、取りあえずボート場で働く人に聞いてみたが、そこではブラックバスの言葉さえ判らなかった。
    僕達釣り仲間は学校でも放課後でも、勉強なんか二の次でブラックバスの釣り方論議が沸騰していた。
    ブラックバスと言う魚を見たこともないのに、とても滑稽な話に夢中になっていた。

 そんな或る日、一番上の従兄弟に会ったら「いいもの見せてやるから家に来い」と誘われ行ったところ、庭に金盥が置かれ、その中に今まで見たこともない魚が居た。大きさは尺上で色は濃い緑、野鯉と鮒の中間くらいの体型、何よりも口が馬鹿でかく鋭い歯が無数に生えている。

    僕は一瞬「ピラニヤか」と思った(ピラニヤだって見たことはないが知識では知っていた)。
    従兄弟は「これがブラックバスだ」と教えてくれた。
    僕は驚いた、どうして従兄弟はブラックバスを釣れたのか、従兄弟はアメリカに行ったことのある友達から知識を得て釣ったらしい。

    釣り方について従兄弟は、テグスは3号、ハリスは鯉針、餌はドバミミズ、棚は底と教えてくれたので、その日の内に仲間に教え歩いた。
    従兄弟は、「明日洗いにして喰うから来い」と言うので翌日の夕方従兄弟の家に行ったところ、ブラックバスの洗いが出来ていた。
    喰ってみたら、臭みはないし身は歯応えがあり、鯉より美味いと思ったし、フライパンで蒸し焼きにしたのも美味かったな。

    僕は半ドンの土曜日の午後、仲間と誘い合ってブラックバス釣りに出掛けたけれど、その日は誰も釣り上げることは出来なかった。
    暫く通った甲斐あって僕は、とうとう待望のブラックバスを釣り上げた。
    引きは、鯉より強くよく走り回り竿が折れるかと思ったが執念で上げたけれど、針を外す時、この歯で食いつかれるんじゃないかと不安になったが何事もなく針を外すことが出来た。
    形は従兄弟が釣ったのとほぼ同じだった。
    僕は喜び勇んで戦利品を家に持って帰ったが、母は気持ち悪がって料理拒否されたのでそのブラックバスは我が家の食卓に上ることはなかった。

    ブラックバスが在来種の魚の生態系を悪化させるなんて、この時は思っても見なかったが、今は憂いている。僕の聖地である渓流も少なからず侵されているんだ。
    あの時はブラックバスに輝きめいたけれど、今は駆逐したい。
    ブラックバスに責任はないんだ、皆馬鹿な人間が悪い。
    ブラックバス釣りは一時の熱病みたいなもので、いつしか話題にもならなくなり、誰も釣らなくなり、仲間内では忘れられた魚となった。
    しかし、20年くらいの時を経てスポーツフィッシングとして復活し、今では相模湖でも津久井湖でも主流の釣りにのし上がった。
    在来種は怯えて肩身の狭い思いをしているのかな。

   ブラックバスは、1925年に実業家赤星鉄馬が芦ノ湖に政府公許のもと試験放流したのが最初と 言われている。
  1945年に進駐軍によって相模湖や津久井湖に部 分拡散されたと記録されているが、相模湖でバスが 確認されたのは昭和30年代だったし、津久井湖は 昭和40年代である。

    僕は昭和30年代前半、相模湖公園で野営をしていた進駐軍に食料をもらったことはあるが    
 ブラックバスを湖に放流したなんて話は聞いたことはないし、町の人からも聞いたことはない。    僕が初めてその名を耳にしたのは、昭和30年代半ばであったことは間違いない。         在来種の魚しか見たことのない子供には、この魚体は恐怖だったな。
つづく