さて、「法と法律」というテーマです。多くの人は、法=法律 だと思うのが普通です。それで日常会話が成り立つわけですが、法律について観察するとき、たとえば「法の支配」とか「法の下の平等」などという場合の「法」と、「法律」というものは、別のものとして考えてみないと、たとえば「法の支
配」も、「法の下の平等」も説明できなくなってしまいます。この違いが理解できないと、法律トラブルについての判断も間違ったものになりえます。「法」とはなにか、というテーマは非常に重要です。ところが「法とはなにか」ということを説明しようとしても、私自身にとっても意味があいまいで漠然としているため、うまく説明することができません。
そこで、「法」という漢字の由来からいろいろ想像してみた次第です。昔の人は、「法」という言葉にどのような意味をこめていたのか。たとえば、青く光る魚だから「鯖(さば)」、腐りやすい魚だから「鰯(いわし)」、師走が旬だから「鰤(ぶり)」といったように、漢字には昔の人が意味をこめてつくりだしていました。「法」という字の由来については、「水+去」と分解され、これを「人間を水上の浮島に閉じ込められた状態」にたとえ、「人間の自由に枠をはめるという意味である」という説を聞いたことがあります。しかしこの説、私にはどうにも腑に落ちません。理屈っぽすぎて、どうも古代人の感性としてはセンスがないなあ、と感じていたのですが、今朝、ふと思いついたのはこういう想像です。
「法人」と言えば、「自然人」の反対語、つまり人間ではない人格を意味しますし、「方法」と言えば「すでに確立された手順であり、当人(個人)の判断ではない」という意味があります。次に「さんずい(水)」について考えてみると、水は蒸発したり固体になったり千変万化して、まるで人間の感情のようにあてにならないもの、という意味があるのではないか。そういう「あいまいさ」を取り「去」って、誰でも納得し予測ができる状態が「法」なのではないかと。人間の感情のようなあいまいさをを排して、なおかつ公益のために最良の判断ができる仕組み、というのは非常に実現が難しいことですが、このように「個人的な感情を排した状態」こそが「法」という漢字の由来ではないかと考えました。
たとえば造船疑獄というのがありました。収賄容疑で時の総理大臣佐藤栄作を検察庁が逮捕しようとしたところ、犬養健法相の指揮権発動によって追求が事実上阻止されてしまった事件です。検察庁法を根拠とする指揮権発動であり、法律には違反しないという体裁ではありましたが、唯一の訴追機関である検察庁が政治家の刑事責任を追及する際に、行政機関の担当者である法務大臣の指揮で追求が頓挫してしまうのであれば、どうやって政治家の責任を問い、国民の納得を得ることができるのか。権力機構の仕組みとして道理に合わないわけで、法務大臣の恣意的判断、つまりあいまいな感情によって権力が動いてしまったのですから、日本社会では「法の支配」が確立していなかったということだと思います。こういうことがまかり通るということは、すなわち日本社会が法のあり方について感心がなく、きちんと理解されていないことを象徴する事件であったろうと思います。